言語と世界認識

 今井むつみの共著書『言語の本質』について述べてみたのだが、今井の以前の著書『ことばと思考』(岩波書店、2011年)のことも気になっていたので、ついでに触れてみる。
 今井はいわゆるサピア=ウォーフ仮説を擁護している。ただし、以下の留意をつけて。

「言語が引き起こす、異なる話者の間での認識の違いについて理解することはとても重要だが、それを簡単に『相互理解が不可能なほどの違い』と断定してウォーフを引き合いに出すべきではない。」(212-3頁)

 サピア=ウォーフ仮説とは、いくぶんカリカチュア化して表現すれば、言語が世界を構成するという説である。世界の認識において、言語が一定の型を私たちに押し付け、その言語特有の世界を構成させる。したがって、言語が違えば、世界も違って見える。この本でも述べられているが、有名な例としてエスキモーの人々(現在ではイヌイットと呼ばれているが、両者は正確に合致しているのではないようだ。これも言語の仕業か)の雪の認識があげられる。他の地域の住民はせいぜい数種類の分類ですましている雪について、彼らは何十種にも区別をする。しかも、今井によれば、分類されたそれらの雪の名は「基礎語」であり、「イヌ」と「ネコ」のように別の言葉として扱われているというのである。
 このエピソードは正確ではないという異論もある。たとえ正確であったとしても、そのことが世界の見方の違いを説明するだろうか。イヌイットの人々には「雪」に相当する言葉がなくとも、彼らが「雪」という概念を認識できないことにはならないはずだ。雪のある一種と雪の他の一種の関係を、雪のある一種と例えば風とか雨とかとの関係と同じにみなすようなことがあるだろうか。いわゆる雪に類するものをいわゆる雪として認識することができれば、さほど世界は違って見えないはずだ。専門家には分かるが素人には細かい区別がつかないということは同じ言語内でもよくあることである。そもそも対象を部分に分ける際には、言語が先行するのではなく、対象の特性が感覚によって把握されるはずだ。それを名付けることは、世界の構成のためではなく、コミュニケーションのためではなかろうか。
 言語による表現の違いは、表現されるものについての言語外の認識によって克服可能である。でないと、異言語間のコミュニケーションはほとんど不可能だろう。そもそもイヌイットの人々が分類しているのが雪であることが分からなければ、彼らが雪にいくつもの名をつけているということが分かるはずがない。「イヌ」と「ネコ」について言えば、日本語においては上位概念として「動物」「哺乳類」「ケモノ」「四つ足」などの名がある。それらの上位概念の名がない言語はたくさんあるだろう。しかし、それらの上位概念を説明すれば、それらによる分類を理解することは他の言語使用者にも可能なはずだ。ニュアンスのちがいというのは、言語間よりも個人間の方が差が大きいのではないか。
 今井は「(母語の)異なる話者の間での認識の違い」を詳細に述べてはいるが、その「違い」が私たちにどのような結果をもたらすかについてはほとんど語っていない。つまり、それは些細な事でしかない。それは今井も認めていることだ。そこで今井は、各言語間にある相違ではなく、言語一般と思考一般との関係に注目し、次のように結論づける。

「結局、言語は人の思考の様々なところに入り込み、いろいろな形で影響を与える。世界に対する見方(知覚の仕方)を変えたり、記憶を歪めたり、判断や意思決定に良くも悪くも影響する。このように考えると、ここでもウォーフの仮説は正しいといってよい。」(204頁)

 ところで、私たちが言語に影響されて思考するなら、言語によって与えられたその思考のいわば歪みのようなものを、どうやって知る(思考する)ことができるのか。その困難を乗り越えるために、今井は言語使用以前の人間(幼児)に注目する(しかしながら、言語的思考をする私たちがそれ以外の思考形態をどうやって認知するのかという問題はクリアーできない。幼児の思考と私たちの思考を比較する主体はどんな思考をするのか)。

「異なる言語が話者にどのような認識の違いをもたらすかを知ることは、確かにとても大事なことだ。しかし、相対的にいって、言語を獲得した後の、異なる言語の話者の間の認識の違いより、言語を学習することによって起こる、子どもから大人への、革命といってよいほどの大きな認識と思考の変容こそが、ウォーフ仮説の真髄であると考えてもよいのではないだろうか。」(183頁)

 今井によれば、言語を習得する以前の子どもは対象の微妙な違いにも気づき、いわば具体性にこだわっている。しかし、言語が具体性を越えた抽象的な概念を子どもに植えつけると、子どもは対象の具体的な特徴よりも概念による差異に注意を払うようになり、言語の構成する世界で対象をおおってしまうようになる。つまり、子どもはいわば原初的(普遍的)な認知のシステムを持って生まれてくるが、言語獲得によって特定の認知システムに移行するというわけだ。
 とはいえ、上記の結論のすぐ後で以下のように言っているところを見ると、今井は「(母語の)異なる話者の間での認識の違い」についても固執しているようである。ただし、「認識」から「思考」への次元転換はあるのだが。

「いずれにせよ、本章の冒頭で触れたように、『思考』の定義に、意識化できる知識や意識的に行われる推論、意思決定に限らず、認知活動すべてを含めて考えるのなら、言語の学習や言語の処理に必要な情報処理システムという観点からも、異なる言語の話者の思考は違うといってよいだろう。」(219頁)

 私たちは言語によって考えるけれど、言語を使わずに考えることもある。たとえば因果関係は言語なしでも認識できる。ただし、記号類を遣わずに思考することができるのかは難しい問題である。
 今井は、はっきりとは言っていないが、言語使用以前の思考というものを記号的思考に変えるのが言語であると主張しているようである。
 言語と記号の詳しい関係は問わないとして、言語は記号として作用するであろう。もし、言語が記号的思考をもたらすと考えるならば、言語獲得以前には記号的思考がないという前提があることになる。つまり、言語獲得以前は対象をあるがままに見るという、いわば写実的な外界認識に基づいて思考しているということになる。はたしてそうであろうか。
 小さな子供たちの描く絵は写実的ではなく記号的である。人間の姿や顔、動物、植物、食べ物、太陽、乗物、風景などが定型的に描かれていて、子ども同士みなよく似ている。この原因としては、大人による示唆や指示(テーマやモデルを与えるなど)、子どもたちが共有し伝承している文化、描写力の不足などが考えられる。また、子どもたちは言語の習得過程にあるのだから、言語の影響下で記号化した絵を描いたとも考えられる。
 しかし、子どもたちは写生ではなく表現をしているとも考えられる。だとすれば、子どもたちは事物を記号的に捕らえていることになる。少なくとも、成長過程における、写生的描写から表現的描写への移行ということは確認されていないであろう。
 つまり、言語獲得以前に子供が記号操作をしているということも考えられるのである。言語が記号的な操作であるとしても、それが人間の成長における初めての、そして/あるいは唯一の記号操作であるとは言えないだろう。むしろ、言語使用は記号操作の一つであり、言語使用とは別に、独立した機能としての他の記号操作もあるとみなすべきではないか。これは言語の生得性という問題に絡んでくる。
 言語という文化が、思考原資とでもいうべきものに影響を与えて特定の型を形成させるという考えには、言語の生得性への疑問視がある。言語が獲得されるということは、人間は生まれながらに言語能力を持っているという仮説への反駁となるように見える。しかし、ほとんどすべての人間が言語を獲得するという普遍性は、単なる伝承や習得だけでは説明がつかない。
 今井の言う「言語」「言葉」は、話し言葉と書き言葉の区別をしていない。さらに、数字をも言語に含めようとしている。数字は記号であるのは間違いないが、言語だろうか(比喩的な意味合いではなく)。算数・数学という記号の体系の知識は教育という特殊な学習によって得られる。そして、何年にもかけて組織的・体系的な学習をするが、その成果は各個人によってバラバラである。このことは文字・文章の学習にも言える。一方で、話し言葉は会話という断片的なデータによって急速に獲得される。算数・数学や文字・文章などと同じような教育を受ける必要はない。無教育でも言葉は話せるのである。このような違いを無視して「学習」と一括りしてしまうことはおかしい。
 逆に言えば、言語なしの生活が人間にはできないのである。言語の有効性が進化の過程で言語なしの生活を淘汰したというのは受け入れられる説であろう。だとすれば、人間は言語を遺伝的に組み込んでいるはずである。言語が習得されるものであり、しかも習得される言語が多種多様であることが、言語の生得性を疑わせることになっている。しかし、言語能力というものを想定しない限り、ほとんどすべての人間が言語を獲得するという事実を説明できないだろう。
 生得的な言語能力があるということは、生得的な思考能力があるということと矛盾しない。一方が他方を排除することはなく、それぞれの機能を併存させることにおかしなところはない。言語獲得に時間がかかるとすれば、その機能は後から追加される形になろう。その過程で子供に何らかの変容があったというのではなく、予定されたプロセスなのである。
 言語によって人間の思考までもが違ってくると今井が主張するのは、学習による行動変容というプロセスを重視しているからであろう。生得性という強い規定は人間の能力向上や変化への自由を否定するように思われるのである。
 ところで、今井は『言語の本質』においては若干見方を変えている。言語獲得以前の子どもの持つ「リソース(感覚・知的能力と推論能力)」が言語習得に重要な役割を果たしていると述べているのだ。『ことばと思考』における「子どもから大人への、革命といってよいほどの大きな認識と思考の変容」という立場の修正と言える。言語獲得以前と以後の断絶ではなく、言語獲得における漸進的な過程を強調するようになった。言語学習を支える能力(あるいは特性)といったものを認めざるを得なくなったのだろう。その具体的な例が対称性バイアスという特性である。だが、それだけでは言語獲得のほんの一部をカバーするに過ぎない。意味や文法がどこから生じてきたのかは謎のままである。
 「リソース」の中に言語能力を含めることにおかしな点はあるだろうか。言語と思考がからみあって発達していくのであれば、それを促すリソースとして思考能力と言語能力があると考える方が無理がない。「感覚・知的能力と推論能力」は既に備わっているとしながら、他方、言語だけは習得によって獲得されるものであるというのは、むしろ偏見と言うべきではないだろうか。