言語の習得

 『言語の本質 ことばはどう生まれ、進化したか』(今井むつみ・秋田喜美、中央公論新社、2023年)を読んだ。オノマトペの分析など、興味深い内容だったが、結果的には違和感が残った。言語獲得を、言語における人間特有の能力によってではなく、言語以前(以外)の能力によって説明しようとする方法に馴染めなかった。著者たちは次のように主張する。

「つまり言語習得とは、推論によって知識を増やしながら、同時に『学習の仕方』自体も学習し、洗練させていく、自律的に成長し続けるプロセスなのである。
 このような仕組みがあればこそ、子どもはほとんど知識を持たない状態から始めても、自分の持てるリソース(感覚・知的能力と推論能力)を使って端緒となる知識を創り、そこから短期的で言語のような巨大な知識のシステムを身体の一部として自分のものにしていくことができるのだ。」(204頁)

 しかし、言語における学習は一般的な学習とは次元が異なる。そのことは言語以外の学習の効果を見てみれば分かる。学習は日常的に(自然に)行われるほか、何らかの知識や技能の獲得のために組織的に習得が図られることがある。学校教育は後者の典型であるが、その効果について、著者らがあげている例がある。著者(今井)の調査によれば、99/100<101/100<100や、1/2+1/3≒1が理解できる中学生は全体の3分の1ほどでしかなかったとのことである(191~192頁)。分数の基礎的知識が多くの中学生において学習できていないのである(むろん、テストのひっかけ効果もある)。誤答した生徒でも多くが、99/100<100/100<101/100は理解し、1/2+1/3=5/6の計算はできる。算数の学習の効果はその程度なのだ。
 そういう中学生でも、ほとんどは言語(正確には「話し言葉」)を操作することに何の支障もない。これは驚くべきことである。学校での学習以前に(あるいは学校での学習がなくとも)言語の基本は獲得される。日常生活においては言語を習得するためのデータはバラバラで断片的である。それなのに、学習の効果は他の体系的知識とは隔絶している。
 このことは、言語の獲得には生得的な能力が関わっていると考えざるを得ないことを示しているのではないか。むろん、言語の獲得には言語データが必要である。しかも、どの言語であっても構わないのであり、特定の言語が生得的に備わっているということはない。だからといって言語が学習によってのみ習得されるとは言えない。言語能力というものを前提としない限り、学習によって言語を獲得するという過程を説明することはできないと思う。
 言語の習得が特殊なのは、逆説的ではあるが、ある程度成長した後には母語以外の言語習得が難しいということによっても示されている。英語学習は学校などにおいて体系的・集中的に行われているが、習熟することは難しい。言語データは幼児期という特定の時期に与えられなければならないのである。
 もし言語習得において学習が大きな要素になっているならば、ある程度成長した後でも幼児期と同じように言語習得が可能であるはずだ。学習には知能の発達が重要な助力になるのであるのだから、かえって成長に伴って言語習得は困難さを克服しやすくなるはずではないだろうか。確かに母語以外の言語学習、特に文字による学習にはその傾向が見られる。
 むろん、言語学習は単なる学習ではないということには著者たちは同意する。著者たちによれば、人間には対称性バイアスというものが見られ、それが言語習得と関係している。対称性バイアスとは、対称性推論をしがちな傾向である。対称性推論とは「AならばX」を「XならばA」に過剰一般化することである。これは論理的には正しくないが、進化的には意味があったとされる。全知的である演繹よりも部分知的である帰納の方が生存に有利であったというのである。この話題ではパースのアブダクション(仮説形成推論)への言及がされている。
 そこで次の二つの仮説が提示される(235頁)。仮説1は対称性バイアスが生得的であるというもの。この仮説は対称性バイアスが言語習得を可能にしているという仮説に連結している。仮説2は言語の学習の経験によって対称性バイアスが生じるというもの。
 この二つの仮説の検証実験によれば、ヒトの幼児はことばの意味を覚える以前から対称性バイアスを示すのに、チンパンジーは対称性バイアスを示さない。この結果は仮説1を支持するものであろう。
 ところで、この実験結果から導き出される仮説を、「この仮説(先ほどの『仮説2』)」(242頁)と記述しているのは誤記でないか。ここでは当然「仮説1」でなければならないはずである。しかし、単純な誤記ではなさそうだ。著者たちは言語能力の生得性ということをできるだけ排除したい(言語学習の範囲を拡大させたい)と思うあまり、つい間違ってしまったのではないか(つまり、仮説1の「生得性」という言葉に過剰反応した)。対称性バイアスを言語学習と組み合わせれば、生得的な言語能力という仮説を排除できそうなゆえに。
 しかし、この実証実験の結果については、逆のことも考えられないだろうか。生得的な言語能力と対称性バイアスは併存している(関連性は不明であるとしても)、というように。そう考えても、人間には言語能力と対称性バイアスがあるが、チンパンジーには両方ともないということの説明になるのである(対称性バイアスを示すクロエというチンパンジーの例外はあるが)。
 対称バイアスに関して、『AIvs.教科書が読めない子どもたち』(新井紀子、東洋経済新報社、2018年)という本の中の事例を取り上げてみよう。この本で紹介されている読解力のテストの一つに、公園にいる子どもたちに関する記述に基づく推論を問うものがある。解答者は大学生であるが、「帽子をかぶっていないのは、みんな女の子です」という文を、「女の子はみんな帽子をかぶっていない」と間違えて解釈したと思われる解答があるようである。論理的には、「帽子をかぶっていない→女の子」が真であっても、「女の子→帽子をかぶっていない」が真とはならない。
 しかし、この記述がどのような場面で行われたのかについて注意を向ける必要があるだろう。テストの作成者は、(架空の)公園にいる女の子と男の子を全て見ていて、誰が帽子をかぶっているかいないかを知っている(全知である)。だから、帽子をかぶっていないという範疇には女の子しかいないということを知っている。帽子をかぶっている女の子がいるかどうかも当然知ってはいるが、わざと記述していないので、テストの解答者にとっては真偽が不明である。それゆえ、「女の子はみんな帽子をかぶっていない」という記述が解答者にとっては「確実に正しい」のではないことは自明であるとされる。
 一方で、ある公園での目撃者(全知ではない)が、そこで出会った女の子はすべて帽子をかぶっていないことを知ったなら、「この公園にいる女の子はみんな帽子をかぶっていない」と推論するのは自然である。それが対称性推論である。
 言語習得に対称性バイアスが組み込まれているのであれば、上記の解答者の誤答は言語習得の結果であるということになろう。あるいは、対称性バイアス独自の作用であるかもしれないが、言語表現のあいまいさが解釈を難しくしているとも考えられる。この間違いを指摘するには、対称性バイアスではない思考(論理)が必要である。言語的にそれができるのならば、言語と対称性バイアスの結びつきは部分的であるということになる。
 言語と思考(論理)の関係は複雑である。思考はその多くを言語に頼っているが、言語的でない思考はある。思考には記号が必要であるとしても、記号は言語だけではない。また、言語が現象のすべてを記述できるのでもない。思考能力と言語能力はからみあっているけれども、一方が他方の必須の前提にはなっていないであろう。