神の留守番

(1)
 ごくたまにだが、宗教勧誘の人が訪ねてくることがあり、その一人(若い男性)に議論を吹っ掛けたことがある。神がいるのにもかかわらず世の中に悪が存在することは、神が全能でないかあるいは慈悲深くないことを意味しているのではないか、そういう議論である。最近知ったのだが、そのような疑問は古くからのものであり、それに答えるために神義論あるいは弁神論というものがあるらしい。そこで『神は悪の問題に答えられるか 神義論をめぐる五つの答え』(スティーヴン・T・デイヴィス編、本多峰子訳、教文館、2002年)という本を読んでみた。
 クレアモント・カレッジズ(カリフォルニア州)に属する五人の論者が提出したそれぞれの文に、それに対する他の論者の批判と当該論者の反批判をつけるという体裁で、さらに本の末尾に他の三人の文がつけられている。読み終えて感じたのは、この難問から脱け出すには棄教するのが一番手っ取り早いのに、いずれの論者もキリスト教信仰にこだわっていることの壮絶さだ。純粋に宗教ではなくても、信仰になるほど深く心に組み込まれた信念が簡単には放棄できないことは、たとえばマルクス主義でも見られたことだ。だから、信念に反する事実が何度突きつけられようとも、その事実が信念に反しないような解釈を何とか試みる。それを人ごとと冷淡にはなれない。ただし、その態度がいかに誠実であっても、部外者から見れば無理をしていると思われるのだ。
 編者のスティーヴン・T・デイヴィスの定義(後述)による神議論をまともに展開しているのは、デイヴィス自身とジョン・ヒックだけである。他の論者、ジョン・K・ロスは神の絶対的な善性を否定することで、また、デイヴィッド・レイ・グリフィンは神の全能性を制限することで矛盾を回避しようとし、D・Z・フィリップスは言葉の問題にすぎないと神議論を切り捨てている。私としては、「抗議の神義論」のロスと、「あとがき」のマリリン・マッコード・アダムズに共感した。両者とも悪の存在についてはいかなる弁解(神の代弁として)も無効だと認める(フィリップスも同様なのだが、彼の主張は分かりにくい)。
 ロスは悪の存在に関して神に責任があるとするが、それでも神が私たちの願いに応えてくれることを期待する。アダムスは(文の中の注で)ロスとは違った見解を述べている。

「私は、神が被造物に対して善である道徳的義務を負っているとは考えていない。私は中世の偉大な神学者たちに倣って、神と被造物との間には大きな形而上学的落差があり、神は、神自身以外の何者にも義務を負わないという意味で、一個の道徳的行為者ではないと考える。」(411ページ)

 それゆえアダムスはロスの期待を疑問視している。しかしながらアダムスは、「恐ろしい悪がそれに関与した人の人生の文脈において無効にされ得るのは、悪の経験がその人が神と結ぶ親密な人格的関係に組み込まれた時だけ」(404ページ)と言って、苦難を乗り越える過程における信仰の役割を重視している。私にはこれは神の実用論的弁護のように思える。善の実現のためにはやむを得ないとするような悪の「道具主義」的な扱いをあくまで非難するロスは、当然のことにアダムスにも同様な批判を向けている。
 ところで、神がロスやアダムスの考えるような存在であるとしたら、何でそのようなものにかかずらう必要があるのだろうか。神はいるかもしれない(神の非在の証明は存在の証明と同様困難だ)。しかし、神は彼の仕事に忙しく、私たち個々人には関心がないようなので、私も神に関心を向けようとは思わないのだ。日本という環境下では無信仰者であることはかくもたやすい。

(2)
 ヒックは進化論的な見方も取り入れ、悲惨で受け入れ難いと思われる状況は人間が自ら向上する環境として神がわざわざ設定したものだと説明している(「エイレナイオス型神議論」)。むろんヒックの考えは進化論とは違っている。進化論は説明しようとする過程に何かの目的を設定しているのではないからだ。ヒックの考えについて、後で取り上げるデイヴィスの考えとも関連する論点だけを見てみよう。
 ヒックは自然悪(人間が直接引き起こすのではない害悪)について、そのような現象のある環境は「知性や勇気や決意などの資質を伸ばす」(114ページ)ため、また「互いに対する愛や思いやり、他人のための自己犠牲、共通の善への奉仕などという、より高い価値を育てる」(同)ために必要だと言う。「‥‥痛みや苦しみがあり得ない世界は、道徳的選択もない世界であり、それゆえ、道徳的成長や発達もあり得ない世界になるだろうということです」(113ページ)。さらにヒックは、「惨禍がほとんど無差別に襲ってくること」(118ページ)について、そうでなければ「真に道徳的行為、つまり善を善であるからなす行為は、不可能となるから」(119ページ)、「自然悪が、道徳と無関係に、偶然に左右されるでたらめなものだということは、人格形成の世界の本質的特色」(同)であるとも言っている。
 このことについて、デイヴィスは違う視点を提出している。

「神の創造の目的が先に述べたようなものだとすれば、一貫性のある自然の因果関係の体系に世界を作った方が良いでしょう。そのような世界では、自然の出来事は、原則として、理解され説明され予測さえ出来ます(ただし、人間から見れば予期していなかったことが起こり得ますが)。そのなかには、善いものもあれば悪いものもあります。つまり、人間以外の原因で痛みが起こる世界を造ることは、神の目的にかなっているのです。(中略)ほとんどの場合、神は脇によけて、自然の自由な成り行きに任せます。そうでなければ、結果は、不規則で、ほとんど完全に予測不可能な世界となるでしょう。」(172ページ)

 このような世界でなければ、道徳意識や、行為の結果への顧慮や、他人への同情や援助や、勇気や英雄精神や、道徳的成長や魂の向上の理由や、神を愛し神に従う理由や、苦難を通しての成長などが、「無くなるでしょう」(同)とデイヴィスは言う。
 人格形成に適切な環境とは、ヒックの言うように世界が偶然に左右されるべきなのか、デイヴィスの言うように大体規則的でまあまあ予測がつくべきなのか、どっちであろう。
 私たちの性格形成において、結果がそれを引き起こした行為とある程度の関連がない限り、特定の行為が助長されることはないだろう。確かに、見込みや思惑が外れることはあり、行為が達成困難だったり、結果が期待外れであることはあるだろう。しかし、それはそれで納得できなければならない。結果が偶然に左右され、やってみるまで結果は見当がつかないのであれば、私たちはギャンブラーとしての性格を見につける必要があろう。それが道徳的に意味があるとは思えない。
 確かに自然災害や事故や病気は、個人にとっては偶然である。起こる確率は予想されても、なぜ他の人ではなく自分が、という疑問は消せない。そのことが道徳心を高めるだろうか。その事態を道徳的に捕えようとする場合、人は何かの原因を探るのである。自分に罪を認めたり、試練を与えられたのだと思う。ヒックの言うのとは逆に、道徳的考慮のきっかけとなるのは偶然そのものではではなく、偶然が因果関係に組み込まれることによってなのだ。
 ヒックとデイヴィスは人間一般(人類)について語っているため自然悪(自然環境)に限っているけれど、個人の人格形成に影響するのは社会環境の方が大きい(人類の進化においてもそうであるという説もある)。そう考えると、人格形成において危険や悪などの要素がどれほど必要なのか疑問になる。私たちの生活は親族や隣近所や遊び仲間、学校や職場などの団体成員、売買の相手、全くの他人などとの付き合いで多くの部分が構成されている。そういう領域は道徳的に中立な行為、せいぜい小さな善や悪によって満たされているのだ。だがそこには競争もあり、挑戦的な目標もある。喜びや悲しみがあり、失意や絶望もある。それだけでは人格形成に足りないのだろうか。
 困難は人を鍛えるかもしれないが、駄目にするかもしれない。あるいは、単なるエピソードにすぎず、人生の進行に大して影響を与えないかもしれない。それは分からない。困難の後に立派になったからといって、困難がなければそうならなかったとは言えない。個人の人生を実験することはできないからだ。ヒックは子猫の学習実験を持ち出してきているが、証拠としてはあまりに貧弱である。困難が人を鍛えるというのは私たちの経験的事実のようでもあるが、誰でも困難にあうのが普通の世界では、「困難のゆえに」ではなく「困難にもかかわらず」かもしれないのだ。
 大した災厄にはあわずに順調な人生を過ごしてまあまあの人格形成で終わった人を、困難によって鍛えられた人よりも不幸せだったと言えるのだろうか。私としては、厳しくしごくスポーツ指導者のような神よりも、平穏無事に過ごさせてくれる神に感謝したいのだが。
 災厄は死者にとっては永遠にそのままであり、生き残った者がそのことによってどのように霊的成長を遂げようとそれが起こったことに感謝するようなものではないだろう。ただ、生き残った者は、(全ての人がそうではではなく、全てについてそうではないけれども)時間がたてば忘れることができる。たとえ、どれほど恐ろしい災厄であっても。それがこのような世界を創ってしまった神の唯一の贖いだろう。

(3)
 デイヴィスの「自由意志と悪」という文をやや詳しく取り上げてみよう。それが現在の神議論の典型であるようなので、論争のテクニカルな性格を一番明確にしていると思えるからである。ここに述べることは他の論者のデイヴィス批判と共通していることが多いが、私独自の視点もある。
 神議論は一神教で問題になる。複数の神を想定するなら、悪の存在の問題はその部分を担当する神がいることで解決するからだ。一神教でも、神の手に負えないこともあることを認めるか、あるいは神にも悪の部分があることを認めれば、悪の存在の問題は解決する。それゆえ、デイヴィスは次のように命題をまとめる。
〈1〉神は全能である。
〈2〉神は完全な善である。
〈3〉悪は存在する。
 神議論ではこの三つの命題が矛盾しないことを証明することが求められる。デイヴィスはこれを論理的問題(LPE)として、「自由意志による弁護論」(FWD)を用いて解決したと言っている。略称が好きそうなことで分かるように、彼は分析哲学者なのである。彼の解決策は、基本的には古くからの「キリスト教の救済論と終末論」を使い、それにひとひねりを加えたものである。つまり、次のような命題を付け加えれば、上記の三つの命題は矛盾しないというものである。
〈4〉世界に存在するすべての道徳悪は神が創造した自由な道徳的行為者の選択による。そして、神が創造し得たいかなる他の世界も、この現実世界に実現されるだろう善と悪の釣り合いよりも良い善悪のバランスをもつことなかっただろう。
 つまり、人間に自由を保証するためには、人間がその自由を使って悪をなすことは可能性として避けられないことであった。しかし、来世を考慮すれば、善は悪を凌駕し、悪はありえたかもしれない他の場合にくらべれば最小限に抑えられている。来世のことは証明できないけれども否定の証明もできないから、論理的には矛盾しない。Q.E.D.
 むろん、論理的に矛盾しないことは、それが現に起こっていることの証明にはならない。人間にそれが分かるのは、デイヴィスの場合は終末になってからだろう。だから、それを信じる信じないは個人の勝手だということになる。デイヴィスの神議論は守勢的なものである。さらに言えば、神に関する論理的に矛盾しない言明は、デイヴィスの有神論の制限を外せば、他にもいろいろ可能である。それらのどれが優っているかは論理的には言えない。どれを信じるかは論理的な理由以外の理由によることになるだろう。
 ところで、自由というものは悪の存在を容認しなければならぬほど重要のものなのであろうか。神は人間を単に善なるものではなく「自由な道徳行為者」としたかったのはなぜなのだろうか。そこが分からない。
 自由のためには善も悪も選べるようにしなければならない。善だけを選ぶようになっていたらそれは自由ではない。人間が悪をなさないようにするのは彼から自由を取り上げることになってしまう。だから、神は人間が悪を選ぶのを防げなかった。人間は善をも悪をもなしうる自由があった。悪をなしたのは人間であるからその責任は人間にあって神にはない(人間の堕落)。
 しかし、この自由論にはおかしなところがある。自由とは何かをしたいときに、それをしようとすることができること(結果としてなしうるかどうかは別として)であろう。行為には動機がある。動機の設定をすれば、自由であっても行為は特定できるはずだ。
 動機のない自由というのは仮定するのが難しそうだが、拮抗する動機を考えればよいだろう。デイヴィスも「真の選択肢」について次のように言っている。

「典型的には、こうした条件は、同じくらい強い衝動(何かをしたいという気持ちとしたくないという気持ち)が共存するときや、道徳的誘惑、つまり、何かをしたいという強い衝動が、それをしないことが最良であるという信念と葛藤するときに当てはまります。」(165ページ)

 つまり「ビュリダンの驢馬」状態である。迷うことと同じ状態がここでの自由なのだ。極端に言えば、何でもできるが、何をしていいか分からない、というのが真の自由なのである。自由は選択に迷うときに発生するだろうが、自由は何も決められない。もちろん衝動や欲望や欲求や信念が選択を可能にするだろう。しかし、そういうものによって選択がなされるなら、真の選択も、真の自由もないといえるのではないか。
 ところでビュリダンの驢馬は選択が不可能だろうか。実は、選択をしないというのは選択をしない状態(現状維持)を選択することであり、ビュリダンの驢馬にとっては飢えたままでいることである。そういう選択よりも、どちらかの飼葉に向かって歩く方がましである。どちらかを選ぶ根拠がなければ、サイコロを振ってでも選べばよい。人間も選択を避けることはできない。選択を迫られてやむなくする選択、そのメカニズムに何かの基準が含まれているはずだ。自由だけを与えられて選ぶための基準は与えられない人間は、悪も善もなそうとはしないであろう。賢明な神にはそういうことは分かっていたはずだ。善をも悪をもなせるというのは、動機に善と悪とが含まれているということだ。

(4)
 デイヴィスは自由だけに価値を認めているわけではなく、最終的に善が悪を越える結果が残らねばならないと言っている。そこに何か神の操作がなくして、そういうことが必然だろうか。神は個々人の個々の行為の決定には介入しないが、全体の確率においては善が悪に優るように動機を持たせたのだろうか。あるいは、善か悪をなす確率を五分五分にして、終末までは待つのだろうか。このことは行為の実現する環境についても言えよう。デイヴィスは人間の意思決定以外では神の介入を認めている。「けれども、私は、神は、時には介入していると考え、いつどこで介入しても道徳的に正当化されると考えています」(216ページ)。しかし、どのような微細な環境への介入も人間の意思決定に影響せざるを得ないだろう。そこで、人間が善もしくは悪をなすように導く環境を出現する確率を神は定めているのだろうか。
 それゆえ、神は功利主義者なのかという疑問もある。個々に悪はあろうとも、全体としては善は悪よりも多いというだけなのか。終末の後に、個々の犠牲者たちも救われるというなら、個人における決算においても、神は功利主義者である。
 さて、こういういっさいのことが人間には知らされていないというのは人間にとってはなはだ不親切である。介入する神の意図は人間には判断できぬことだとしても、人間の側からの評価はできるだろう。神は人間の自由を守るために意思決定には介入しないことにした。しかし、意思決定の環境には介入しているようだから、意思決定への影響力は行使しているようだ。だとしたら、行為後に介入することまで控えねばならないのだろうか。悪い行為に対して罰か罰の予告を与えることは、人間の自由に悪影響を及ぼすのだろうか。悪に対して確実に罰が伴うならば、悪を行う人間は特別な動機のある人間だけになるだろう。それでは自由な意思決定を妨げることになるのだろうか。どっちにしろ、最終的には罰が下るのだから、個々の行為の直後にそうしてもいいのではないか。そうすることによって人間はもっと早く善くなるだろう。
 罰によって悪を防ぐというのは拙劣な方法であるとしても、神は審判の予告によってそれをなしている。また、たまに気まぐれに罰を実現させて人間に警告しているようでもある。神は人間の心そのものに影響を与えることは控えなければならないので、賞罰で操作しようとする行動主義者(彼らは人間の心をブラックボックスとみなす)のような振る舞いをしている。行動主義者であれば、賞罰は行為のすぐ後になされるべきことは知っているはずである。
 賞罰が下品であるとしたら、神はカウンセラーのように会話によって影響を与えることはできないのだろうか。意思決定の前に神が説得して悪い行為をやめさせるようにしてはいけないのか。あるいは行為の後でも反省を求めて改悛させることは出来ないのか。そういうことも控えているのだろうか(グリフィンの神は説得力だけに頼っているらしいが)。
 そういうことは神の意図ではないのだろうか。神は人間を放置しておいて自由に罪を重ねる経験をさせたいのであろうか。だとすれば、神は終末まで完全に隠れているべきではないだろうか。なまじ姿をちらちらさせて、意思決定にわずかでも影響を与えてしまうのはまずいのではないか。それとも、神は自分の存在をあいまいにさせて、人間に賭けをさせようというのだろうか。パスカルの賭けを。
 神の介入の程度が現状のようであることの適切さが、私には分からない。それが神の意図であると言われてしまえばそれまでだが、納得できる理由は欲しい。私たちの霊的完成のために悪を必要としない世界は可能なはずである。それでは人間は物足りない存在にしかならないので満足できないのは神の勝手である。つまり、そういう人間を作るために人間をいじめるのは、神の趣味か、能力不足なのだ。デイヴィスは能力不足説を取っているようである。「これ以上に善い世界を造ることは神の力でも出来なかったということです」(168ページ)、「論理的に可能な世界のすべてが創造可能なわけではありません。全能者によってでも、創造できない世界があります」(170ページ)と言っているのだから。そうであるなら、デイヴィスの神は全能といえるのだろうか。私たちには不可能に見えても、神は人間には理解できないやり方で可能にする力があるのではないか。神の力を人間の判断で限ってしまうことはできないはずだ。
 デイヴィスは地獄を必要だと思っているようである。それはそうだろう。神を信仰しない者までを救済するなら、何で神を信仰する必要があるのか。確かに神に逆らった者たちが罰をうけるのは必要であり当然であろう。しかし、キリストの神を知らなかった者、神の教えを知らされもせず、その教えに従う機会を与えられなかった者たちも地獄へおとされねばならないのだろうか。デイヴィスは彼の神議論をユダヤ=キリスト教の範囲内に限っているけれど、神がそうしているわけではないだろう。
 キリスト教の神が悪を容認しているというなら、私はキリスト教徒にこう言いたい。君たちの神が君たちの霊的完成のために非キリスト教徒である私たちをも苦しみに巻き込むことをやめさせてくれないか。