スミスの「同感」

(1)
 アダム・スミス『道徳感情論』(1759年、水田洋訳、岩波書店、2003年)の冒頭を引用する。

「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、あきらかにかれの本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、かれに他の人びとの運不運に関心を持たせ、かれらの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきだせないのに、かれにとって必要なものとするのである。この種類に属するのは、哀れみ(ピティー)または同情(コンパッション)であって、それはわれわれが他の人びとの悲惨を見たり、たいへんいきいきと心にえがかせられたりするときに、それにたいして感じる情動(エモーション)である。」(第一部第一篇)

 スミスは哀れみや同情を同感(シンパシー)に含め、他の人が喜ばしい場合も含めて説明しようとする。悲惨な状況の人を見れば、その人が悲嘆にくれているように私も悲しくなる。幸福な状況の人を見れば、その人が喜んでいるように私もうれしくなる。これが同胞感情あるいは同感であるとスミスは言う。しかし、常にそうだろうか。悲しんでいる人を見ていい気味だと思ったり、喜んでいる人に腹を立てたりしないだろうか。スミスは嫉妬が撹乱要因であることは認める。また、特定の利害関係があれば反対の感情が起こることも認める。だから、「中立的な観察者」「利害関心のない傍観者」を標準にするように言う。この第三者的立場がスミスの道徳論のカナメとなっている。
 さて、同感が道徳へ転化するのはどのようにしてであろうか。他者の幸福を同感することは「快楽」であるから、他者が幸福であるようにすることは自らの「快楽」を増加させることになる。他者の不幸を同感するのは不快であるから、そのような他者を幸福にさせるのは、自らの不快を除去し、他者の幸福を同感することができるので、不快(マイナスの「快楽」)から「快楽」へのさらに一層の増収が望める。そういうことになろう。
 悲しみへの同感は、悲しんでいる人をそこから脱け出させるように援助する行動を導き、喜びへの同感は、いっそうそれを増すように人を仕向ける、ということで説明がすんだとスミスは思ったようである。しかし、そこには飛躍がある。他人の悲しみに由来する自らの悲しみを除去するには、他人の悲しみをなくそうとするよりも簡単な方法がある。他人の悲しみから目をそらせばいいのである。記憶が残るという問題はあるが、目の前から消え去ったことを忘れるのはさほど困難ではない。利己的な主体がなぜ他人の悲しみを放っておかないかということについて、スミスは説明をすませていないのである。喜びについても同様で、他人の喜びを増すよりも、同じ努力で自分の喜びを増すようにする方が、利己的な主体にとっては手っ取り早い。
 そもそも、悲しみの場合と喜びの場合を同じに扱おうとするのはおかしい。スミスも次のように言う。

「悲哀にたいするわれわれの同感は、歓喜にたいするわれわれの同感よりも、真実さがまさっていなくとも、注意をひくことにおいてまさっていた。同感ということばは、そのもっとも固有で始原的な意味においては、他の人びとの受難にたいするわれわれの同胞感情をあらわすものであって、享受にたいするそれをあらわすものではない。」(第一部第四編第一章)

 にもかかわらず、スミスは次のように反対する。

「しかしながら、この先入見にもかかわらず、私があえて主張したいのは、次のことである。すなわち、そこに嫉妬がないばあいには、歓喜に同感するわれわれの性向は、悲哀に同感するわれわれの性向よりも、はるかに強いということ、そして、快適な情動にたいするわれわれの同胞感情は、苦痛な情動にたいしてわれわれが抱くものよりも、主要当事者によって当然に感じられる情動のなまなましさに、はるかに近づく、ということである。」(同上)

 スミスが「歓喜に同感する」ことに固執するのは、同感が利己心を通じて道徳的行為を呼び起こすという原理を主張したいがためである。『国富論』において利己心の効用を主張したように。
 しかし、「他の人々の受難」に対して、まず彼らの「悲哀に同感」し、その不快を避け、さらに彼らの「歓喜に同感」することを望むゆえに支援する、という道徳過程は複雑すぎるのではないだろうか。同感という迂回路よりも、悲惨さを認識することが同情を呼び起こすという直接的な経路の方がすっきりするのではないか。悲惨な状況にあっても悲哀を感じていない人もいるのだから、「悲哀に同感」と同情(憐憫)とは同じではない。同情を同感とするには、悲哀を感じている当人が自分自身に同情を感じていなければならないだろう(自己憐憫を同情とみなせばありうるが)。それに、同情はむしろ悲哀を否定しようとすることではないだろうか。悲惨な状況にある人に対して、その人と同じ(ような)悲哀を感じるのは難しいかもしれないが、同情はできるのである。

(2)
 同感は人を助ける動機となるには効率の悪い感情である。ただし、スミスも感謝されることの喜びについて言及している(慎重にも、感謝が誰に向けられたかは問わず、助けられたひとが感謝を表明することを知るだけでも、という点に絞っている)。確かに、感謝されるとうれしい。一方で、感謝されないと物足りないか、ときには腹立たしくなる。そういうことを考慮することが人を助ける要件になるのだろうか。援助の純粋性を損なうと感じられるので、感謝を受けるのを避けようとする傾向もある。逆に、感謝だけでは反対給付としては不十分で、元を取るならお返しが必要だという考えもある。助けられたことを債務のように感じて、その清算のためにお返しをすることについてはスミスも述べている。ここで指摘しておきたいのは、スミスは、体系的に述べているわけではないにしろ、交換論的な視点をときおり持ち出していることだ。今では当然視されているように、「慈恵」を互恵的交換とみなす説明を展開することはスミスにもできただろう。しかし、お返しを期待して援助をするのなら、同感は何の役割を果たすのか。
 実は、スミスが同感について執拗に述べているのは、同感を判断の基準として扱おうとしているからなのだ。つまり、同感できる場合は是認であり、同感できなければ否認となる。だから、何らかの状況において生じる他人の感情、たとえば侵害された人の憤慨を、同感の対象として取り上げるのである(当然のことながら、侵害した者とされた者の間には同感はない)。私たちが他者を侵害する人について憤慨するのが事実だとしても、侵害された人の憤慨への同感を経由するのは余計な回り道であり、侵害する人に対して直接憤慨を感じるとした方がすっきりする(侵害された人が諦めてしまっても、私たちは諦めに同感することなく、憤慨する)。しかし、それでは、利己的な主体がなぜ自分でなく他人に向けられた侵害に憤慨するのかを説明できないとスミスは考えたのだろう(当然その説明を私たちもしなければならない)。
 スミスの観点では、侵害された人の憤慨に第三者が同感することでその感情を是認する、という二層構造になっている。つまり、同感は一次的な(侵害者に対する)感情ではなく、二次的な(侵害された人の感情に対する)感情として用いられているのである。そして、同感がサンクションとなるのは、この二次的な意味においてである。
 ややこしいので、当事者を第一者と第二者、観察者を第三者としよう。侵害者(第一者)に対する被侵害者(第二者)の憤慨に第三者が同感できれば是認する。この是認によって、侵害という行為が禁止されるのである。
 悲惨な状態にある人の場合も同じ構造になっている。ある人(第二者)の悲惨な状況にはその原因(第一者)がある。第二者の悲しみに第三者が同感できるかどうかが是認の可否を決める。同感による是認は、悲しみの原因を排除しようとすることに導く。
 喜びの感情についてはどうだろうか。喜んでいる人に同感して喜びを分かち合っても、それだけの話である。それ以上その人を喜ばす動機にはならない。動機となるのは、その人の現にある喜びではなく、その人の喜びの前の感情(悲哀など)からの、あるいは無感情からの変化であるはずだ。喜びの原因(第一者)が、ある人(第二者)を喜ばせ、第三者はその喜びに同感することで、喜びの原因を増殖しようとすることに導く。
 スミスが重要視する同感は、ある行為の結果として生じた感情を評価する機能であり、同感できればその行為を禁止ないし奨励するというサンクションになるのである。つまり、同感にはその対象となる感情をひき起した原因も含まれているのである。同感に判断基準が含まれているのなら、はたしてそれを感情とみなすべきなのだろうか。第三者として状況を客観視するのであるから、それを感情とはいえないのではないか。あるいは、感情が生じるとしても、当事者と同じとは限らないのではないか。
 他人の感情を共有するという意味での同感で説明できることは限られており、むしろほとんどないと言ってよい。私たちがある感情を表明している人と関わり合いを持つときに感じるのは、多くはその感情とは違った感情なのである。そのことの説明をスミスはしてくれてはいない。

(3)
 スミスは二種類の行為へのサンクションを重視する。一つは人を助ける行為(それは喜びを生み出す)への是認。もう一つは人に危害を加える行為(それは悲しみを生み出す)への否認。援助行為は賞賛され奨励されるものだが、しなくとも罰せられない(することを強制されない)。侵害行為は非難され禁止されるが、しなくとも賞賛されることはない(しないことを強制される)。社会を成り立たせる最低限の法は、侵害行為などをしないことを強制させるもので十分であり、援助行為のような望ましいが強制されない行為がなくとも、社会は成立する。

「社会は、さまざまな人びとのあいだで、さまざまな商人のあいだでのように、それの効用についての感覚から、相互の愛情または愛着がなにもなくても、存立しうる。そして、そのなかのだれひとりとして、たがいになにも責務感を感じないか、たがいに感謝でむすばれていなくとも、それは世話を、ある一致した評価にもとづいて損得勘定で交換することによって、いぜんとして維持されうるのである。」(第二部第二篇第三章)

 「慈恵」は「建物を美しくする装飾」でしかないので「押しつける必要はない」が、「正義は、大建築の全体を支持する主柱である」ので、正義を犯す行為は法によって罰せられなければならないとスミスは言うのである。
 さて、ここでスミスは正義の根拠としての感情を強調する。通常の考えでは、社会を成り立たせるためには正義が守られる必要があることは誰でも理解できることであるから、社会を成り立たせるという理性的な判断によって正義が作られたと説明することが妥当に思える。しかし、スミスは、正義は憤慨への同感を基礎にしているのであって、理性によるものではないと主張して、次のように批判する。

「洗練され啓蒙された理性がわれわれにすすめるだろうような諸目的を、われわれが生まれつきの諸原理にみちびかれて推進するとき、それをするわれわれの諸感情と諸行為を、それらの作用原因にたいしてのように、その理性に帰せしめ、ほんとうは神の知恵であるものを人間の知恵であると想像する傾向が、ひじょうに強い。」(同上)

 さらに、正義だけでなく、他の徳もそうであるとスミスは言う。ただし、感情というあいまいで移ろいやすいものを基準にしては、確固たる足場が得られないのではないか。そこでスミスは「適宜性」という、いわば市場的な値づけを想定する。悪い行為には非難、よい行為には賞賛が価格としてつけられ、多くの人の同感(評価)によって世間相場が形成される。自身の行動を評価する場合は、自己判断のゆがみを避けるために、世間相場を代表する「中立的な観察者」を想定して、彼になったつもりで自己評価をする。相場が固定していれば、価格表のようなものが作成できるだろう。すなわち、一般的諸規則が形成されて、それに従って行動することが義務づけられるようになる、とスミスは言う。
 スミスの言う徳は、正義を除くと、どちらかというとマナーのようなものであり、大きな犠牲を強いるものではない。徳に従うことは他の人の是認という喜びが得られるが、それも大きなものではない。もともと、他者の是認・否認から成立する「適宜性」というのは、平均値の範囲に収まってしまうものだろう。スミスもこの限界を認めていて、徳の追求が一般的な水準を越える特別な人の場合についてときどき述べている。ただし、スミスはそういう場合をも含めた一般的な理論にしようとしていて、二層化することを避けている。そのことが理論の特性をあいまいにしてしまったことは否めない。特別な場合は切り離して、一般的な徳はマナーでいいと言いきってしまえば、インパクトはより大きかったろう。
 上述のように、スミスは正義以外の徳がなくとも社会は成立するとみなしている。正義以外の徳は社会を住みやすくするだけのものなのだ。それはまるで処世訓のようで、中年者には受け入れられるだろうが、若者が心をときめかすようなものではない。スミスは、利己心、自愛心、セルフ・インタレストといったものを批判しない。そういうものによる行為の全部が否認されるのではなく、それどころか、そういう行為のほとんどは是認されるのだ。是認という言葉が奨励を含んでいて適当でないのであれば、否認されないと言い換えてもよい。否認も是認もされない行為の範囲は広く、そこでの行為の多くは利己心のようなものに基づいている。
 他者の同感による是認と否認を強調するので、スミスの提示する人間像は他人の眼ばかり気にする上っ面だけの人間に思えてしまう。スミスの体系では社会的順応者ばかりの世界しか表現し得ないように思える。スミスもその点は気にしていたようだ。スミスは「中立的な観察者」の内面化の必要性を説く(フロイトの超自我のようなものを考えればいいのだろう)。
 同感をサンクションの機能として捕えるならば、評価者は当事者になる。つまり、評価者は第一者の行為を是認か否認し、第一者は評価者の是認・否認に応えて行為を強化したり修正したりする。当事者はその相互作用について利害関係を持つから、評価者の評価が正しいかどうかを評価する新たな第三者(中立的な観察者)が必要になる。二版以下の改訂において、ちょっと違った文脈(利己心の克服)ではあるが関連する文章の中で、スミスはそのような第三者を心の中に想定し、「理性、原理、良心、胸中の住人、内部の人、われわれの行為の偉大な裁判官にして裁決者」(二版第三部第二章)とまで呼んでいる。他者と対立しても自らの信念に基づいて行動する場合を取り扱おうとすれば、このような心の中の第三者を要請せざるを得ない。改訂版においてはその傾向が強くなる。
 日本語訳は初版に基づいているが、改訂についても載せてあり、二版と六版での追加が多い。これは私の単なる憶測にすぎないのだが、カントが何らかの影響を与えたということもあるのではないか。カントに対するスミスの影響については指摘されているようだが、逆があってもおかしくない。ただし、二版は時期的に該当しないので、六版が二版の単なる延長であるならば、そういうことは否定されてしまう。ちなみに、『道徳感情論』の初版は1759年、二版が1761年、六版が1790年、カントの『道徳形而上学原論』は1785年に出ている。
 それはともかくも、スミスが道徳論においてドイツ観念論者よりも正しかったのは、今日においては明らかである。理性とか精神は、主体の行動のほんの一部でしかなく、他の領域はもちろんのこと、自らについてさえよく理解できていないのだ。そして、感情が多くの行動を説明できる合理的な現象であることが分かってきているのだから。