社会生物学とニーチェ

 『ダーウィンの危険な思想 生命の意味と進化』(ダニエル・C・デネット、1996年、山口泰司監訳、石川幹人・大崎博・久保田俊彦・斉藤孝訳、青土社、2001年)の中に「ニーチェは二番目にやってきた大社会生物学者で、ホッブスとはちがってダーウィニズムから霊感(や挑発)を受けた」とあり、『道徳の系譜』が取り上げられていたので、興味を引かれて読んでみた。
 『道徳の系譜』(1887年、木場深定訳、岩波文庫、1940年)は三つの論文によって構成されている。第一論文『「善と悪」・「よいとわるい」』の最初にニーチェは「イギリスの心理学者」たちに対して、「よい」「わるい」という言葉の概念成立の経緯について反論する。「『よい』という判断は『よいこと』を示される人々の側から生じるのではないのだ!」と。つまり、行為が他者に利益をもたらすから「よい」とされるのではない。「よい」とはそれ自身でよいものの状態を表した言葉なのだ。ニーチェの言いたいことをさらに分かりやすくするために極端化した表現をすれば、「初めに行いありき」ではなく「初めに言葉ありき」なのである。そして、初めにあった言葉がゆがめられてしまったことをニーチェは嘆く。ニーチェにとっては道徳の問題は言葉の問題であった。行為や状態が正しく表現されていないからこそ、本来「よい」ことが「わるい」と判断され、その逆も起こる。ではなぜそれらの言葉がゆがめられてしまったのか。戦闘的貴族(戦士・騎士)から「怜悧な」僧侶的貴族へ、僧侶的民族へ、奴隷的階級(民衆)へと、言葉を担う主体を横滑りさせていくことによって、ニーチェは説明しようとする。弱者は強者が持っている「よい」ものを持てないゆえに、価値を逆転させて「よい」を「わるい」に(そしてその逆も)してしまったのだ。つまり、イデオロギーによって支配を得たということだろう。しかし、弱者の手に言葉が奪われた理由をニーチェは私たちに納得させてくれない(なぜ弱者が支配的になるのだろう?強者はそんなに弱いのか?)。
 第二論文『「負い目」・「良心の疚(やま)しさ」・その他』の冒頭でニーチェはテーマを述べる。「約束をなしうる動物を育て上げる――これこそは自然が人間に関して自らに課したあの逆説的な課題そのものではないか・・・」と。ここでニーチェの問題意識は社会生物学者と共通するように見える。互恵的利他主義から道徳(利他行動)を導き出すという卓見を既にニーチェは示していたのだろうか。しかし、社会生物学者たちがそこに利益の追求(取引)を見出そうとしたのに対し、ニーチェは取引における債務履行についての債権者の不安に焦点を当て、債務保証としての抵当、債務不履行の際の補償、そして補償としての債務者の「苦しみ」と債権者の「快感」などについて語る。債務を忘れさせないための努力が「負い目」を、そして「良心の疚しさ」を生み出すというのだ。
 ニーチェは社会生物学者と同じ立場に立っているのではなく、むしろ彼らに正しい質問をしていると言える。利他行動が実は時間的にずれたお返しを期待しているのなら、期待が実現する保証はあるのか。社会生物学者は取引の長期継続の期待にそれを求めようとするのだが、長期というのが永遠でなければ、確実な保証にはならない。ニーチェは約束の履行を義務とさせる操作について語ったのである。
 その後、刑罰についての寄り道を経た後、ニーチェの論理は二筋に別れる。一つは、祖先への返しきれない債務の観念から神という「債権者」が出現するというもの。もう一つによれば、抑圧者・支配者としての国家(社会契約による国家ではなく)によって抑えつけられた被支配者の「自由の本能(私の言葉で言えば――力への意志)」が「内に向けられ」て自己をさいなむ。「この押し戻され、引き下がり、内攻し、そしてついにはただ自己自らの上にのみ放出され洩らされるようになった自由の本能、これが、これのみが良心の疚しさの起始なのだ」。二つの論理は無造作に次のように組み合わされる。

「飼い馴らすために『国家』のうちへ閉じ込められた動物人間は、この苦痛を与えようとする意欲のより自然な放(は)け口が塞がれて後は、自分自らに苦痛を与えるために良心の疚しさを発案した、──良心の疚しさをもつこの人間は、最も戦慄すべき冷酷さと峻厳さをもって自分を苛虐するために宗教的前提をわが物とした。神に対する負い目、この思想は彼にとって拷問具となる。」(P109~10)

 デネットが注目するのはこの第二論文である。彼はニーチェのどこに進化論的発想を見出したのであろうか。一つは、社会形成において、集団選択的な社会契約ではなく、利己的個体を前提にした互恵的利他主義的アプローチを取ったこと。もう一つは、「ダーウィンの最も根本的な洞察の一つ」(デネット)である「発生論的誤謬」をニーチェが独自に指摘していること。後者については「刑罰の起源と目的」に関して言われており、確かに現にある機能や意味から直接にその成立の経過を推定しようとすると適応万能主義に陥る危険はあるのだが、ニーチェ自身にしてもそういう危険に対して常に抑制しているわけではない。デネットは、「ニーチェの道徳の系譜の要諦は、自然から敷衍される歴史の中には、価値についての単純に割り切った結論はどんなものでもすべりこませないよう、よくよく気をつけねばならない、という点にある」と評価づける。しかし、そのようなことをニーチェが言っていたとしても、それは気の利いた思いつきでしかなく(論争のためなら何でも使ったのだ)、本当に言いたかったことに比べればどうでもいいことなのだろう。
 むしろ私が強い印象を受けたのは第三論文の方だった。第三論分「禁欲主義的理想は何を意味するか」において、ニーチェは「禁欲主義的理想がほかならぬ哲学者たちからいつも多少とも贔屓目(ひいきめ)に取り扱われてきた」として、そこに彼らの「生存」に適切な環境を求める彼らの利己的な傾向を見る。「曰く、《世界は亡びんとも、哲学は栄えよ、哲学者は栄えよ、われは栄えよ!》と」、「彼らは自分のことを考えている」、「そこには『徳』の片鱗すらもない」。
 哲学者の先行形態である「禁欲主義的僧職者」は、彼らの考えを「病める蓄群」(民衆)に教えることによって、「苦しんでいる者に対する支配」を享受する。「僧職的存在の価値を最も簡潔な方式に盛りたいと思うならば、直裁にこう言うべきであろう。僧職者は《反感》の方向転換者である、と」。世界に対する《反感》(ルサンチマン)を彼ら自身に向け変えることによって、「すべての苦しんでいる者のあしき本能を自己訓練・自己監視・自己克服のために利用し尽くす」。
 つまり、禁欲主義的理想とその系譜を引く宗教的倫理は、このような意志、本能、利己心といったものを動機として根底に潜めているので、表面的に思われているような道徳的価値は疑わしいとニーチェは指摘する。もしその動機を認識するようになれば、それらの権威は疑われる。「真理への意志のこの自覚によって、今後──それには疑いの余地はない──道徳は没落する」。
 利他行動に利己心の基礎を与えようとする進化論者は、まさにニーチェの「自覚」を実践しているようである。道徳は没落するのか。しかし、なぜ道徳に利己的な背景があってはならないのだろうか。ニーチェは軽蔑して次のように言う。

「抑鬱と戦いに用いられる更に一層重宝な手段は、飲み易い、また常用されうるような小さな悦びを処方することである。この療法はしばしば前述の方法と結合して用いられる。このように悦びを療法として処方する場合の最もありふれた形式は、悦ばせること(恩恵を施すとか、施与をするとか、便宜を計るとか、援助をするとか、勧奨をするとか、慰藉するとか、褒賞するとか、抜擢するとかいうような)の悦びである。禁欲主義的僧職者は「隣人愛」を処方するとともに、極めて控え目にであるが、実際には最も強い、最も生命肯定的な衝動を──力への意志を処方する。すべての恩恵・便益・援助・抜擢に伴う「最小の優越」が含む幸福は、生理的阻害者たちの常用する最も贅沢な慰藉手段である。」(P172)

 もし、他人を援助する「悦び」が「力への意志」の一種であるならば、「力への意志」はさまざまな形態を取ることができるということになる。しかし、そうであると「力への意志」の意味するところが曖昧になってしまう(何でも意味するものは何も意味しない)。それを防ごうと思えば、「最も贅沢な慰藉手段」(利他主義)を「力への意志」とは別種の「生命肯定的な衝動」とすべきだろう。さらに言えば、「生命肯定的な衝動」というものが「力への意志」以外にもたくさんあるのであれば、「力への意志」だけが選ばれなければならない理由はない。他人を援助する「悦び」が単にそういう衝動の一つだとしても、それを選んでいけない理由はあるだろうか。