カントを読む 2(実践理性批判)

(1)
 カントは、『実践理性批判』(樫山欽四郎訳、河出書房新社、1965年)では純粋理性の認識の機能を理論理性と位置づけ、別に実践の機能として実践理性を提示している。『純粋理性批判』と『道徳形而上学原論』にも理性の実践使用の記述があるが、いずれもその難解さにてこずった。
 まず戸惑ったのは理論理性と実践理性の関係である。実践の前提として認識が必要だと考えれば、両者間の連携が必要となるはずである。認識と実践が継起の関係になっているとすれば、フィードバックのようなことは行われるのか。両者の機能の違いはどう調整されるのか。私の理解では、クラーク・ケントたる理論理性がスーパーマンである実践理性に変身するというようなイメージしか得られなかった。
 しかし、以下のように考えてみるとすっきりする。理論理性の世界と実践理性の世界はお互いに独立して、しかも同時進行的に変化している。実践理性が実践しているとき、理論理性はそれをいわば中継(ライブ)放送しているのだ。両者はまったく別に機能していて、つながりはいっさいない。だからこそ同じ行為についてそれぞれの違った解釈が可能なのである。理論理性と実践理性は機能的に統合されてはおらず、単なる併存状態にある。このことについてカントは「実践理性はそれ自身で、また理論理性と申し合わせをすることもなく」(11ページ)のように度々示唆しているのだが、気がつかなかった。
 実践理性の理解に対する次の障害は、「可想界」という言葉である。カントはこの言葉を、以下の三つの意味に使っているように私には思われた。
① 可想界A:叡知者だけで形成する理想の道徳社会。理念。
② 可想界B:理念が物自体に影響を与える世界。理論理性が認識する現象の世界と、いわば背中合わせになっている世界。
③ 可想界C: 物自体の世界。
 この三つの可想界が文脈によって使い分けられているようなのだが、では、可想界とはいったい何なのだろうか。
 一方で、カントは悟性界と感性界の関係についても語っている。悟性界は感情や欲望などの感性的なもの(傾向性)がいっさい取り去られた世界であり、そこで主体は道徳行為を欲することができる。ところが、悟性界で形成せられた意志(自由意志)が感性界と出会うと、傾向性による意志と競合することになってしまう。それゆえ、自由意志は命令という形で道徳行為を促すのであるが、その命令が常に実行されるのではない。
 実は、『実践理性批判』での「感性」の扱いは『純粋理性批判』とは異なっている。カントは言う、「(前略)ここでは感性は全然直観能力としてではなく、ただ感情(これは欲求の主観的根拠となりうる)として考察される、そしてこの感情に関しては純粋実践理性はそれ以上の区分を許さない。」(79ページ)。
 そうであれば、可想界Aが悟性界であり、可想界Cが感性界であって、両者が可想界Bで出会うというすっきりした形になる。物自体と感性の関係は、認識においては感性が物自体を現象として捕らえるのだが、実践においては感性的なもの(感情の他に欲望なども関与すると思われる)が物自体であるのだ。ただし、物自体は超感性的であるので、感性的という言い方はおかしいが。
 つまり、可想界とは実践理性の機能する場であり、そこで悟性は身体を通じて物自体と関わるのである。身体は悟性と物自体をつなぐインターフェイスなのである。ただし、身体も物自体であり、「感性的なもの」(傾向性)を性質として備えており、いわば抵抗力を持っている。
 可想界において行為は自由意志の結果であるが、その同じ行為を理論理性が感性を媒介にして認識したのが現象である(自由意志は感性によっては直観できないので現象からは脱落している)。認識における感性には実践理性は関与しない。実践理性は「傾向性」としての「感性的なもの」に関わるのみである。
 ただし、遡って『道徳形而上学原論』を読み直してみると、そこでは可想界は感性界と対比させられている。「感性界」と言うとき、感性が把握した物自体の世界、自然界、現象界などを意味する場合(理論理性の機能の場として、可想界と対比される場合)と、悟性の命令にあらがう「感性的なもの」、身体に巣食う「傾向性」の所在などを意味する場合(可想界の一要素として、悟性界に対峙される場合)を混同しないように注意しなければならないのだろう。
 ところで、可想界を語っているのは誰なのだろう。認識においては、物自体が感性によって現象化され、さらに悟性によって概念化されてから理論理性がそれを扱うのだが、可想界については不可知である。実践理性は可想界で実践はするけれども、そのメカニズムを認識する手段を持っていないのではないか。
 それはともかく、認識と実践が切り離されているというカントのこのアイデアは、いまの私たちにはさほど受け入れにくいものではない。理論理性を意識と考えるなら、意識の能力を制限するという現代の知見に通ずるものがある。意識は可想界での出来事を現象としてのみ認識するだけで、そこで実際に何が起こっているか分からない。自由意志というものの正体は意識には不明である。
 カントは私たち読者に対して自由意志の命令に従うように執拗にさとしているのだが、私たちのどの部分に対してだろう。理性に対してではない。理論理性には自由意志を知り得ることはできないので判断のしようがないだろう。一方、実践理性にはその必要はないはずだ。実践理性の自由意志というのは法則に従う他に選択がゆるされていないのだから(その意味で自由意志が自由といえるか疑問なのである)。
 可想界の中で自由意志と傾向性の対立に立ち合わされているのは、カントの「理性」を越えた私たちなのだ。カントが私たちに勧告せねばならないと思うのは、私たちには自由意志の命令に従わずに傾向性の誘惑に負ける可能性があるからだ。自由とは迷うことである。カントは知らぬ振りをしているけれども、私たちは選択の機会を与えられている(自由な)主体なのである。

(2)
 「なんじの意志の格率が常に同時に普遍的立法の原理として妥当しうるように行え」(54ページ)という「純粋実践理性の根本法則」は、ただ形式的、論理的妥当性を要求するだけで、経験的な内容を排除する。この法則が私たちの道徳感を表現し得ているか、検討してみよう。
 『道徳形而上学原論』でもそうだったが、道徳の「普遍的法則」の具体例をカントはあまりあげていない。『実践理性批判』の中の例を見てみると、「自分の財産をあらゆる確かな方法でふやすことを格率とした」(27ページ)場合というのがある。預かり物を着服するというのはこの格率に相当する。では預かり物を着服するのは「普遍的法則」になり得るか。皆が預かり物を着服するようになれば、預かり物は成り立たなくなるから「そのような原理は法則としては自己否定におちいる」とカントは言う。したがって、「自分の財産をあらゆる確かな方法でふやす」という格率は「普遍的立法の原理として妥当」しないので斥けられる。
 カントは預け主が死んでいて、それについての証書がない場合と限定づけている(カントの例示に限定が多いのは、議論をややこしくしないように単純化するためである)。ところが、この限定はかえっておかしな結果を招く。誰にも知られない(この場合はそういうことを想定しているのであろう)のなら、着服が預かり物を成り立たせなくなることはない。着服の経験のある人も含めて、誰も他人が着服したことを知らないから、用心することはない。落し物が着服されるのと同じことになる。もし、着服が堂々と行われるとしたら、確かに物を預ける人はいなくなるであろう。しかし、そういう世界は考え得るであろう。それは、「人に物を預けない」という格率が普遍的法則である場合と同じ結果であり、着服は原理的にできないのではなく機会がないだけなのである。
 もっと過激なケースを考えてみよう。「物を盗む」という場合はどうだろうか。全員が物の盗み合いをしたら特定の個人の財産が増えるということはない。しかし、「物を盗む」を格率にしても、普遍的法則として矛盾はない。「物を与える」が普遍的法則になったのと同じ結果になる。「物を盗む」「物を与える」が形式的な矛盾を引き起こすとすれば、それは所有という制度がある場合である。所有という概念がなければ、個人財産はなく、盗むも与えるもない。物の移動があるだけで、それを道徳的に是とすることは可能であろう。
 「嘘をつかない」という法則の微妙さはカントも承知していて、次のような例を出している。「普通ならば害にもならない嘘によって、いやな事件から身を引きえたか或るいは愛すべくまた功績もある友人に利益を与えてやれたかもしれない場合」(77ページ)である。例によって慎重に状況を限って、そのような誰もが利益を得る場合においても、嘘をつかないことが義務とされるのである。しかし、もっと端的に、「嘘をつかないことで他人の心を傷つけてしまう場合」はどうだろうか。そういうときに自分の正しさにこだわるような人を、私たちは道徳的とはみなさず、気が利かないと敬遠するだろう。
 それでも正しさは情念に負けるべきではないという人に対しては、「人の感情を思いやる」という格率は「普遍的法則」ではないのかと問おう。それは社交術であって道徳ではないという意見もあるだろうから、一つの仮定として考えた場合、「嘘をつかない」と「人の感情を思いやる」という二つの法則が両立しない状況は容易に考えられる。実は、「普遍的法則」が成立しにくいのは、法則が自己矛盾するからではなくて、法則と法則が矛盾するからである。もっと形式的な例として、「複数の妻を持つ」という法則をあげることができる。一見これは男全員が妻を持つことを妨げるので「普遍的法則」にはならないように思えるが、複数婚を認めれば可能である。この法則が矛盾するのは「妻は一人の夫しか持てない」という法則なのである。諸法則が調整されてそれぞれが「普遍的法則」になるのは非常に困難である。むしろ、法則は状況に応じて使い分けられなければならないのではないか。
 あるいは、法則は経験によってでしか得られないかもしれない。例えば、劇場や映画館での火事や船の沈没などの状況を考えてみよう。そこにかかわる全ての人が、逃げ口や救命ボートに殺到すれば、混乱してかえって逃げ出せないし、ボートに乗れなくなるだろう。では、私たちのすべきこと(意志の格率)は、逃げない、救命ボートに乗らないだろうか。確かにそうすれば私たちの個々の行為は矛盾なく成立する(普遍的立法)。だがそうしていると、建物は燃え上がり、船は沈没し、私たちは助からない。
 銀行の取り付け騒ぎについても同じようなことが言えるが、この場合は皆が預金を引き出すのを控えることで破産を回避できるかもしれない。しかし、業績が悪化していていずれは倒産することが予想されるのであれば、災害時と同じ状況になる。
 カントの道徳律は結果についてはいっさい問うことを禁じる。だからこのような場合、観客や乗船者や預金者が破滅することは、この格率の妥当性を疑わせる根拠とはならない。形式的、論理的にはこの格率は普遍的立法の原理として妥当する。
 別の考えもできる。皆が逃げよう、ボートに乗ろう、預金を引き出そうとしているときに、一人だけそうしないでいるという格率は、全員に適用することはできない。なぜなら全員が同じ格率に従えば「一人だけそうしない」ということは成立しないからである。これは屁理屈に聞こえるかもしれないが、逆のケースを考えてみればよい。一人だけ逃げ出す、一人だけボートに乗る、一人だけ預金を引き出すという格率が普遍的でないのと同じである。したがって普遍的なのは「皆と同じにする」ということになる。皆がすわっているときにもっとよく見ようとして誰かが立ち上がれば皆が立ちあがってしまうという、個人的に合理的な行動が集団的な結果として合理的でなくなる場合に、カントの法則は同じ解決策を提案することになる。
 だが、結果を重視する私たちにしてみれば、違った解決策を模索しなければならない。人々が殺到する状況を改善するには、例えば優先順位をつけることがあげられる。行列を作るのだ。だがそれにはルールが必要であり、そのルールは先験的には与えられないだろう。自生的にせよ、計画的にせよ、経験の中から獲得されていくだろう。

(3)
 『実践理性批判』は、『純粋理性批判』や『道徳形而上学原論』に対する批判への反論でもあるようだ。『道徳形而上学原論』では、道徳行為から感性的要素(ここでは傾向的なもの)を排除することが強調されていた。道徳から利益を取り除くのは妥当だとしても、感情まで否定されてしまった。道徳行為は無感情に事務的に、場合によってはいやいやなされるべきなのかという疑問や反発が当然起こったであろう。冷淡に、あるいはいやいやするような行為に意味はあるのだろうか。それよりも、道徳行為に喜びを見出す方が好ましいことではないのか。
 カントはそのような反響を考慮せざるを得なかったはずだ。そして、行為論的にも問題はあった。行為には動機が必要であるという反論に対し、道徳行為の原因を論理的・形式的なものとするだけでは十分説得することはできなかった。また、原因が必然的なものであるならば、道徳行為が義務であり、命令に従う形でなされるのはなぜなのかという疑問も、より詳しく解明される必要があった。
 『実践理性批判』でもやはりカントは道徳に快のようなものがあることを認めない。すべて感性的なものは自愛的である。道徳行為に付随する様々な感性的なものは道徳そのものに対する(論理的、非感性的な)欲求ではなく、たまたまその行為が道徳に一致していてもそのような感性的なものによってなされたのであれば道徳的ではない。では、道徳行為自体には喜びはないのか。あるとすればそれはなし難いことを達成したという自己満足であろう。そのような傲慢さは道徳的とは言えない。「高尚な、崇高な、寛容な行為としての行為へと励ますことによって心に注ぎこまれるものは、ただ道徳的狂信であり、高慢を高ぶらせることであるにすぎない」(75ページ)。
 ただし、道徳的でありえたという自己満足については、カントはある程度認めてはいる。それが道徳の厳しさを耐えやすくし、また真の道徳行為への教導として働くのであれば。だが、それを行為の目的としてはならないし、そもそもそれは行為の後に起こるのだから行為の目的にはならないとカントは言う(この二つの言明は矛盾している。それが目的とはならないのなら、目的としようとすることはないのだから)。
 道徳行為がなされるためには、諦めねばならない感性的なものがたくさんあり、その喪失の苦痛のみが感情として道徳行為に残されるとカントは言う。だから、道徳行為には否定的な感情が付きまとうのである。多くの感性的なものを断念したことの「自負」もうぬぼれとして否定される。かくて道徳律は人を謙遜にし、それゆえ道徳律は「尊敬」の対象になる。感情というものが道徳行為に伴わざるを得ないとしたら、あるいは感性的なものが動機でなければならないとしたら、この「尊敬」こそが真の道徳感情であるとカントは言う。
 この「尊敬」が、道徳律に従うことを義務として受け入れることを可能にする。道徳律に従うことが当然と感じられるのであれば義務の感覚は生じない。しかし、道徳行為が(道徳律のみを理由にして)進んでなされることは、被造物としての人間にはできないことである。感性的存在でもある人間は「決して欲求や傾向性から全く自由であるわけにはいかない」(74ページ)からである。つまり、動機には感性的なものが混ざらざるを得ず、道徳への欲求は決して純粋にはなり得ない。論理的な理由からのみ道徳行為を行うことは人間には果たしえない理想であり、そこに限りなく近づくしかないのである。それゆえこの「尊敬」に基づく強制(命令)に従うこと、即ち義務が必要となるのである。「尊敬」は快ではなく、「違法になりはしないかという恐れもしくは少なくとも不安と結びついている」(73ページ)と、カントはフロイトの先駆者のようなことを言っている。これではカントは道徳行為によほど苦痛を感じていたのではないかと勘ぐってみたくなるほどだ。
 しかし、カントは道徳と幸福とは全く関係ないとは言い切らない。道徳と幸福とに何とか折り合いをつけようとしている。カントの言い方をカリカチュアにしてみれば、幸福のために道徳を求めてならないが、道徳は幸福にしてくれるだろう。あるいは、道徳を求める旅のゴールには幸福が待っているが、そのゴールは永遠の彼方にある。これでは幸福は見ないために見せられているようなもので、提示されない方がましである。
 なぜカントは幸福にこだわるのだろうか。カントの厳しい道徳観を貫いて、道徳はその理念が実現されるためだけにあるのであり、幸福とは何の関係もないのだと言いきってしまわないのだろうか。その方がすっきりした体系になるのに。たぶん、カントは妥協したのではないか。宗教と民衆に。
 幸福と全く関係をなくしてしまえば、道徳は何のためにあるのかという疑問に捕らわれざるを得なくなるだろう。私たちの幸福と何の関係もない道徳なんて、どうでもいいし、興味もないということになってしまうだろう。ましてやそれが負担を課すものであるとしたら、逃れようとする他ないのではないか。
 カントは道徳による幸福を確実に約束はしない。実際、そうなってはいないのだから。しかし、人間にはそれを期待せざるを得ないことは認める。そうでなければ道徳は放棄されてしまうであろう。だから、霊魂の不滅と神の存在、すなわち来世での救済を必要とみなすのである。
 そうしなければ、道徳は厳しい神として表現せざるを得ないだろう。神は人間のことなど気にもせず、ただ彼の意図の実現のために、人間に道徳を課す。人間には神の意図ははかれないので、理由も分からず、見返りも期待できないままに道徳に従う。さすがにカントもこのような神を受け入れることはできなかったようだ。
 だが、もっと巧妙な神も考えられるのだ。その神も、人間のことなど単に理念のための手段としてしか考えていないが、人間の性向をわきまえているので、人間が即座に喜べる報酬を与えて、人間の行為をコントロールする。人間はその神の意図には気づかず、目の前の報酬につられて、長期的には自分のためになるかどうかは分からないのに、神の理念の実現のために行為する。道徳もまたそういうコントロールの一つなのだ。道徳行為が喜びであるのは、道徳行為を人間にさせたい神の計画のゆえなのである。しかし、道徳は人間のためではなく、神のためにある。その神の名を遺伝子という。