普遍のモンテーニュ

 モンテーニュの『随想録』(松浪信三郎訳、河出書房新社、1966年)を読んで面白いと思ったが、どう評価していいか分からない。はるか後代の、地域的にも離れた人間の印象と、時代的文化的ないわゆる「文脈」の中での受け止めとが同じであろうはずはないからだ。勝手な憶測としては、あの時代にこういう意見を述べるのはかなりユニークであったのではなかろうか、ということである。しかも、それが一方的に排撃されずに(1676年に禁書になったらしいが)、一つの思想として認められたのはなぜなのだろうか。
 その疑問を解いてくれそうな解説書を探した。まず、『永遠普遍のモンテーニュ』(ピエール・ミシェル、1969年、関根秀雄・斎藤広信訳、白水社、1981年)という本を読んでみた。たまたま図書館にあったというだけの選択である。読んでみて、モンテーニュの影響力の大きさに驚いた。発表された当時から現代に至るまで、多くの人に(しかも、知的な実績を遺した人に)読み継がれているのである。イギリスに受け入れられたのは分かる気がするが、あのニーチェでさえ「最も熱狂的で変わることのなかった崇拝者」であったとは。私の持っている『随想録』(『エセー』)は、河出書房新社の『世界の大思想』といういささか古い全集の中に含まれているものだが、この29巻の全集で取り上げられているのはわずか24人にすぎず、しかも2巻本扱いになっているのはモンテーニュの他にはカントとスミスだけである(マルクスが『資本論』で4巻を占め、アウグスチヌスとルターが1巻にまとめられてある)。モンテーニュに対するそれほどの取り扱いを以前から不思議に思っていたのだが、これほど評価されているのなら当然のことだと納得した。
 次に(これも図書館にあったからなのだが)、関根秀雄『モンテーニュとその時代』(白水社、1976年)を読んだ。著者はモンテーニュの研究者および翻訳者である。モンテーニュに関して細かいことまでよく分かった。いささか細かすぎて、西洋史に疎い私には背景が分かりづらい。ユグノー、サン・バルテルミーの虐殺、カトリーヌ・ド・メディシスなどは断片的に記憶があるけれど、世界史の流れの中にあてはめることができない(でもこれは私の勉強不足)。著者の推論には賛成できかねる部分もあるが、しかし、モンテーニュに関するこのように詳しい解説書を日本語で読めるのは幸せなことだ。母語でこんな本を読める人間が世界でどのくらいいるだろうか。この本によると、モンテーニュの宗教的政治的な立場は微妙であったが、彼があまり熱心とはいえないけれどもカトリック教徒であり、王権の支持者であったことが、異端の疑いを免れさせていたようだ。
 さて、本体の『随想録』に戻って、取りとめのない雑談でしかないように思えるこの著作のどこにそんな魅力があるのだろう。その疑問は一層深まった。とはいえ、さらに参考文献を渉猟して『随想録』を分析してみようとまでは思わない。私がモンテーニュに感心したことが、私だけの特別な場合ではなく、多くの人にも共通したことであることが確かめられただけでいいのだから。ただし、私の感想を言うなら次のようになるだろう。彼が述べるのは、現にある人間の姿であり、あるべき姿とか、あるべきでない姿というのは、現状の制約下にある人間の適切な行動という意味で取り上げられる。何事かを言いたい人は、現状を非難しがちである。モンテーニュは現状の欠陥は認めるけれども、それを無理にでも変えることはできないことをわきまえている。だから、現状でいくぶんでも満足できるところはそのまま満足していた方がいいと言う。このような現実主義的、プラグマティックな態度がイギリス人に人気があったのは当然だろう。ただし、彼は単なる現状肯定的な保守主義者ではない。次の文章の彼のドライな意見は、良くも悪くも現代的とさえ言えるのではないか。

「私は、人から与えられるもので、そのために感謝という名目で自分の意志を抵当に入れなければならないものほど、高価につくものはないと思っている。むしろ私は、売りものの奉仕を受ける方がいい。私はほんとうにこう信じている。この売りものの奉仕はお金を与えるだけですむが、他方のものには、私自身を与えなければならなくなる。義理のおきてによって私を縛る束縛は、民法上の拘束による束縛よりも、はるかに窮屈で重いように思われる。」(第三巻第九章)

 ところで、モンテーニュが自分自身について率直に述べただけであるとするならば、彼のやり方を真似て、彼ほどではないにしろ同じような成功を得ることが他の人になぜできなかったのだろうか。『随想録』の中には、自らを突き放したような意見が述べられていて驚くところがある。そのような知見は、単なる内省によってはなかなか得られない。なぜなら、意識というものは自分自身についてすべてを知っているわけではないからである。自分自身について起こること、自分が行動することについて、その過程なりメカニズムについては、意識には昇ってこない部分が多い。しかし意識は自分の得られるわずかな結果だけを受けとって満足するようにはできていないらしい。意識はそれを何とか説明しようとし、したつもりでいる。だから、多くの場合、意識は、自分が知っていると思い込んでいる、ご大層でご立派なことしか私たちに教えることができないのである。モンテーニュにしてもそういうことから免れているわけではないのだが、ときどきそういう意識の誤魔化しに気づいている。
 何がモンテーニュにこのような洞察の力を与えたのかは分からない。しかし、それが『随想録』を魅力あるものにしていることは確かだ。そして、それが他の人が真似ることのできないモンテーニュの独自性になっている。