常識追及の倫理

 アリストテレスの著書を読んだわけでもないのに彼を低く見ていたのは、「総合の人であって創意の人ではない」という彼に関する評価をどこかで得ていたからである。その先入観ないし偏見が彼の著書を読むことを妨げていた。『ニコマコス倫理学』(高田三郎訳、河出書房、1966年)はずっと以前から本棚にあったのに。ただ、この年齢になってから読んだ方がよかったということは言える。若いころに読んでいたら、まさに「創意」のなさに失望していただろうから。
 『ニコマコス倫理学』におけるアリストテレスの見解が、当時のギリシャ世界で一般的であった知識を背景にしているのであれば、一見常識的にすぎないようなその見方が、実は私たちにとって文化的に異質なものであり、その真の意義が私たちには分かりにくい、と言うことができるかもしれない。西欧においてはキリスト教が真理を常識から離反させた。日本においても宗教の役割が大きかったのかもしれない。その結果、私たちは倫理を個人的な快を抑えるものとして捕えている。しかし、アリストテレスは倫理が個人的な快によって支えられていると言うのだ。人間は快楽を求め、苦痛を避ける。だから、倫理が個人的に必要とされるなら、それは快楽として求められているはずである。こういう見解が私たちにとっては衝撃的でないはずはない。
 倫理というのは、他人とってよいことと自分にとってよいことを両立させる努力の表現と言えるのではないか。自分にとってよいことの追求は往々にして他人とっては好ましくない結果をもたらす。そこから紛争が起これば、よいことが帳消しになってしまう恐れがある。他人への配慮は紛争を避けるために利害の調節を計ることとみなせる。しかし、他人のために自分の利益追求をあきらめることは不快なことである。その不快を代償するような快を見つけられるであろうか。それをなすのが理性の役割とされる。したがって、倫理は理性によって担われる。
 単に様々な快を比較するだけなら理性は必要あるまい。快の大きさが自動的に行動を決定するだろう。ただし選択は快を得る前になされなければならないので、快の大きさは予測されねばならない。多くの場合、快はそれを求める欲求や欲望と結びついているので、それらの大きさが比較されることになる。ところが、眼前にはない快の機会は欲求や欲望を呼び起こす力が弱いと考えられる。それらが選択の対象となるためには欲求や欲望が仮定されるか過重されねばならない。未来の予測、つまり眼前にはない快を考慮することが理性的行動なのであろうか。目の前にある快の機会と先延ばしされる快の予測を比較すること、より具体的には短期的な行動を抑制し、長期的行動を選択させることが理性の役割だろうか。
 そうだとすれば、理性は快・不快から中立的であるはずだ。それらに影響されては正当な判断ができないのだから。しかし、人間が快を求め不快(苦痛)を避ける存在であるならば、そのような理性的行動はいかにして可能であるのか。例えば、予測をするのは誰なのか。予測することが快でなければ、快を求める人間はそんなことはしないであろう。論理的一貫性を保持しようとするならば、予測することは快であるとしなければなるまい。より一般的には、理性を働かすことは快でなければならない。これがアリストテレスの主張であると思われる。これを認めるのであれば、理性は様々な快を求める他の心的諸要素、つまり欲望、欲求、感情、情動などと同じレベルに立って競合することになり、快から自由であるという優越的な立場を放棄することになる。アリストテレスはそのことを承知していて、理性的であることは性格なり教育なりで形成されるものであり、全ての人間に求められることではないと考えているようだ。
 もう一つ問題がある。倫理的行動は、それが途中経過に不快を含んでいても、結果的に快をもたらすからなされるのであれば、結局は快をもたらすとは限らないことが予測された場合は、なされないであろう。状況によって採用されたり採用されなかったりするのでは倫理と呼べるのであろうか。これを回避するには、他の快によって倫理を補強せねばならない。つまり人々の賞賛という快である。賞賛は有利な地位につくなどの快を得られる見込みを示すという標識の役割を果たすと考えられるが、それよりも確実なのは賞賛されることそのものが快であることだ。しかし、たとえ賞賛がそういうものであっても、それがないところで倫理行動を取ることの助けにはならない。
 自分にとって不利な行動であり、他人からの賞賛も当てにできない状況で、倫理的行動がなされるのはなぜなのか。論理一貫性を保とうとするなら、倫理的行動そのものが快であるということを認めなければならない。アリストテレスは理性の快が即自的であることを強調している。快をもたらす何らかに至るための手段としての行動は状況依存的にならざるを得ないから、理性的行動が恒常的であるには即自的に快でなければならないだろう。アリストテレスはそこで止まってしまっているが(倫理は理性によって導かれるとするから)、倫理についても同じことが言えるだろう。自分を不利にする行動がなぜ快であるのかということが問題になるのは進化論においてである。それ以外の場合は、ただ単にそうなっていると認めればすむことだ。
 倫理的行動が快に基づくとしたら、その快の強さが倫理的人間の条件となるであろう。アリストテレスにあっては理性的行動を強く快と感じることが、理性的人間でありまた同時に倫理的人間であるための条件となる。事実問題として、そういう人が全てではないし、多数でもないかもしれない。にもかかわらず、倫理が概ね守られているのはなぜだろうか。倫理を守ることは自分にとって有利ではないかもしれないが、他人に倫理を守らせることは有利であるだろう。だから、お互いに牽制し合うことで(つまり賞罰を与え合うことで)倫理は守られるのかもしれない。通常はそれでもかまわない。ところが、非常事態とでも言うような場合には倫理的行動は自発的に起こる(その意味で、状況依存的と言えるかもしれない)。真の倫理的行動は他人からの働きかけとは無縁である。そのようなときでも他者の存在に影響される人は倫理性が不足していると言い得るだろう。
 アリストテレスは教育によって倫理的人間になれると主張している。しかし、教育は何が倫理的かを教えることはできるが、実践させるまでの力はない。形式的に、つまり他人にそう見えるように仕向けることはできても、それを快とするには素質が必要である。たぶん、彼には分かっていただろうが。
 アリストテレスは、実証的と評されるように、物事のあるべき姿よりも現にある姿の方を重視しているようだ。当然ながら、背後に働く真理などを探らず表面的にとどまっているように思われ、常識的な見方と受け取られやすい。しかし、常識も徹底すれば鋭い認識をもたらす。常識が常識的なのはその中途半端さのゆえなのだろう。