普遍のプラトン

 プラトン『国家』(山本光男訳、河出書房新社、1965年)を読んだ。ポパーなどの影響もあって、プラトンの評判は悪いようだ。確かに、『国家』を読むと、哲人王とか、妻子の共有とか、民主主義社会に対する侮蔑とか、詩人の追放とか、現今の私たち(全員ではなく、多数でもないかもしれないが)が尊重する信念に反する内容が出てくる。その「私たちの信念」とは、社会の設計は人知のおよぶところではないので、なるに任せるべきであって、少数の権力者によるいらざる介入は控えなければならないというものであり、その根拠として、人間の自然の性質は強力であってそれを矯めようとすれば必ず無理が生じてくるので、その性質を基礎とした自生的な社会が人間にとって最適なものであるという認識がある。しかし、そのような信念からの悪評判のためにプラトンが読まれなくなったということはなく、書店の棚には依然としてプラトンの本は並んでいる。プラトンを読むという伝統は強力である。
 そういう伝統を別にしても、プラトンを読まないのは損である。なぜなら、プラトンは面白いからだ。対話という、劇か小説のような形式のせいもあるが、語られている内容が現代においてもなお有効性を失っていないからであろう。しかも、そんじょそこらの道徳思想家と違って、自分の考えこそが正しいと強引に押しつけるのではなく、異なる考えと自説を比較検討して説得しようとする。だから、克服すべき考え方にも精通している。
 『国家』の第一巻でトラシュマコスがソクラテスに対して述べ、第二巻でグラウコンとアデイマントスが敷衍して述べている反論は、以下の引用文に凝縮されているだろう。

「・・・人は主張するでしょう。誰一人自ら進んで正しくあるのではない、むしろ正義は個人的には善いものではないから、強制されてである、何故なら各人は不正をなすことができるだろうと思うところでは、いつも不正をしうるものであるが故に、と。というのは実際すべての人々は不正義は正義よりも個人的には遥かに多く得のいくものであると思っているからです。」

 別のところでは、快と善が一致しないという言い方もされている。快とは個人的によいことであり、善とは個人を越えたより広い人々の集まりにとってよいことである。言葉の意味の混乱を避けるために、以下においては、善には個人的なものと社会的なものがあり、個人的な善が快であり、社会的な善が正義であるということにしておく。正義という社会的な善の個人的な取り分(個人的な善=快)は、不正義から得られる快(個人的な善)よりも少なく思えるというのが、上記の引用文が言うように、通常認められる事実である。にもかかわらず正義が尊重されねばならないのはなぜか。
 ここでは個人的な解釈をしてみる。プラトンは、個人の中に善と悪の心があって、それらが相克しているとは考えない。そもそも純粋の悪などというものはないのだ。そこで、正義を支えるのが道徳心、快を求めるのが損得心であり、人々はその二つの心を合わせ持っているとしよう。正義をなさしめるには、損得心を棄てて道徳心を選ぶようにしなければならない。そのためには道徳心の方が優れていることを納得させる必要がある(優れているというのが何を意味するかが問題とはなるが)。それが知の作用である。だからこそ、ソクラテス(プラトン)は対話によって真実を導き出そうとするのである。
 もう一つの方法もプラトンは併用している。それは快と正義は矛盾しないことを示すことだ。つまり、正義が個人的にも善であるということを証明して、正義をなさしめるのに損得心に邪魔をさせないで、むしろ協力させようというのである。そのためには、長期的ないし広範囲に見た場合においてという条件をつけて検討することになる。
 このような証明をしようとしているソクラテス(プラトン)の対話は成功しているとは私には思えない。その上、プラトンを読んでいて、イライラさせられるというか、はぐらかされた気持ちになるのも事実だ。描かれたソクラテスの話しぶりは詭弁と思わせるようなところが多く、これではソフィストと区別がつかないのも当然な気がする。そのことはプラトンも承知していて、ソクラテスの論証に対する不満を作中人物に度々語らせている。それだけ難しいということだろう。プラトンの課題は今なお解決されずに残っているのだから。また、そのことはプラトンの世界は依然として私たちの世界でもあるということを現しているのではないか。つまり、プラトンは人間の本質的な部分を洞察し得ているので、私たちにも共感できるのだろう。
 『ソクラテスの弁明』(田中美知太郎訳)と『クリトン』(同)は短いので以前に読んでいたのだが、ついでに再読してみた。すると、前にはなかった感動があった。描かれたソクラテスの姿に打たれたのである。つまり、語られていることの概念よりも、個人としてのソクラテスの言動に響くものがあるのだ。これも歳をとったせいだろうか。結局は、個人の資質というか性格というか、その人をそうあらしめているものこそが、人間において、社会において、重要ではないかということなのだ。これは、個人が自分でどうこうできるものではなく、与えられたものであるから、不公平なことだと言える。目指すものになるように努力することが重要だという反論があるかもしれないが、努力するということができるかどうかも、また資質なり性格なりによってもたらされるのだから、やはりどうにもならないことだろう。
 善い人間とはどんな人かという判断は人によって違ってくるだろうし、好き嫌いもあるだろうから、一定の性格がどうとか確かなことは言えない。しかし、ある人が他の人と比べて善いという判断はできる(もちろん、判断を誤ることもある)。そういう判断こそが、生きていることを意味あらしめることではないだろうか。制度とか教育だとか、『国家』の中でもいろいろ検討されているが、そんなことはどうでもいいことだと思えてしまう。しかし、そうであるとしたら、私たちは出会うことの偶然性に頼るしかないのであろうか。